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「鍵屋」さんへの手紙|マッキー牧元の「行かねば損する東京の和食」

1年間の外食数は600軒以上。高級店からB級までをくまなく知り尽くすタベアルキスト、マッキー牧元さん。食べ歩きのプロ中のプロに、今行くべき東京の和食店を教えてもらいます。

拝啓 「鍵屋」清水様

いつもありがとうございます。初めてお店にお伺いしたのは、今から三十数年前、私が二十代後半の頃でしたね。

カウンターに一人で座ったのですが、品が漂うご年配の独酌客ばかりで、いたく緊張したことを覚えています。しかしそれも束の間、裸電球の柔らかな光で盃を重ねれば、都会の速度が遠のいて、自分だけの時間がゆっくり戻ってきました。

まだ北林谷江に似たお母様がいらっしゃって、入る時には「いらっしゃいまし」、帰る時は「ありがとう存じます」と、お声をかけていただき、背筋がピンと伸びました。ある日、帰ろうとすると「今宵は雨ですから、足元にお気をつけてお帰りください」と声をかけられた。聞けば、丁寧な侍言葉の口調だとか。さすが長く続く店は、言葉から違うのかと感心したものでした。今のお店でも、帰り際に女将さんからこの言葉をかけられると、「ああ、いい時間を過ごしたなあ」と、幸せが募ります。

私がお伺いする時は、必ず一人です。カウンターには独酌客が並び、静かに自分の時間を楽しんでいらっしゃる。姿勢がよく、行儀がよく、無駄口をたたかず、注文の間がよく、ご自身の酒量を守っている。さりげなく来て、さりげなく飲み、さりげなく帰る。一流の呑兵衛たちが黙々と呑みながらも、静かに人生への謳歌を滲ませている。東京には名店といわれる居酒屋がたくさんありますが、この雰囲気は「鍵屋」さんだけですね。

今から20年ほど前のことです。忘れられない光景に出合いました。お隣りに三つ揃いを着た70代の紳士が飲んでいました。ふと見ると盃が「鍵屋」のではない。「鍵屋」のぐい呑は、そこに青い蛇の目模様がついた、利き酒用の盃ですが、彼のものは違う。白磁の綺麗な形の盃でした。口が広い朝顔型で、淵がかすかに反り返って飲みやすそうな盃です。酒の入った盃をゆっくり口に持っていくと、すいっと一口で呑み干し、何事もなかったかのようにカウンターに置く。その一連の動作が名人の踊りのように淀みなく、自然でカッコいい。しかしこの盃は常連だけに出される特別なものだろうかと考えていると、「お勘定をお願いします」と言われました。

するとポケットから絹のハンカチを出して盃をくるみ、しまわれたのです。“マイ盃”だったのですね。しかもそのすべて動作が飄然として、嫌みがない。いつかあんな酒呑みになりたい。そう、切実に思ったものです。こんなお客さんが似合う酒場も、「鍵屋」さんしかありません。「鍵屋」さんでは、まず突き出しの味噌豆で少しやって、長年の糠床で漬けられたお新香を頼み、季節に触れます。次にたたみイワシに冷奴か湯豆腐を頼んで一本。それからもつ鍋やくりから焼きで二本。都合三本を、ぬる燗でいただきます。普通は菊正ですが、仕事が厳しい日が続いたら辛い大関の熱燗で心を引き締め、悲しいことがある時は甘口の櫻正宗で和らげます。年代物の銅壺でつけた酒は、精神の揉みほぐし方が違います。ピタリと温度が決まった酒は、優しく脳を揉みほぐす寛容力がある。

僕は店への愛着を無言の中に押し抱えて、静かに呑む。それが粋な呑み方だと、この店で教わりました。ああ、こう書いているうちに、また行きたくなりました。また必ず近いうちに。一人で。

敬具


2020年10月吉日
マッキー牧元

マッキー牧元

マッキー牧元

1955年東京出身。㈱味の手帖 取締役編集顧問 タベアルキスト。日本国内、海外を、年間600食ほど食べ歩き、雑誌、テレビなどで食情報を発信。「味の手帖」「朝日新聞WEB」「料理王国」「食楽」他連載多数。三越日本橋街大学講師、日本鍋奉行協会顧問。最新刊は「出世酒場」集英社刊。

鍵屋カギヤ

「鍵屋」の取説 安政3年、酒屋として創業。当時酒屋で呑む行為を「居酒」といい、女人禁制で男だけの社交場だった。「鍵屋」が現在の酒亭形式を構えたのは昭和24年だが、江戸に多かった男の単身者同士が楽しんだ気風は今にも残る。尾崎士郎、内田百閒、高橋義孝、平山三郎、永井荷風、谷崎潤一郎、木下順二、山口瞳ら、この店を愛した文士や文化人たちも、そんな風情を好んだのだろう。独酌客が集う、“大人の保育園”である。裏通りの路地にひっそりと佇む、しもた屋風木造の一軒家。店頭に置かれた爐行燈には酒徳利が描かれて、中に「鍵屋」の文字。「酒 鍵屋」と書かれた暖簾は、夏は白麻に墨、冬は藍に白。暖簾を潜り、格子戸を引けば、正面が楓の分厚いカウンターで、左の八畳の小上りには古い大小の座卓が置かれている。品書きは15種。まず突出しの煮豆がいい。「冷奴」はまず女将さんが、「冷奴の割り下です」と小鉢を出し、次に「お薬味です」と長方形の木箱に入った葱が運ばれる。そして豆腐は染付け平皿の上に簀子が渡され、上にはおろし生姜と刻みしそをちょこんと載せた冷奴が横たわる。ご主人が焼くのは鳥皮やもつ、合鴨や鰻のくりから焼き。酒は、菊正宗、櫻正宗、大関の3種類。背が高い細身の白徳利に注がれた酒は、見事な温度で燗がつけられ、蛇の目ぐい飲みが添えられる。早い時間(17時から)なら予約4人まで座敷で可能。ただし女性ひとり客および女性のみのグループは厳禁。必ず男性が入ってないといけない。

鍵屋

住所:
東京都台東区根岸3-6-23-18
TEL:
03-3872-2227
アクセス:
鶯谷駅北口から徒歩5分
営業時間:
17:00~21:00
定休日:
日曜・祝日
支払い方法:
カード不可・電子マネー不可

更新: 2020年10月30日

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