「ああ、なぜこんな店が東京にないのだろう」 名古屋「花いち」|マッキー牧元の美味しいから旅をするのだ!

悩みに悩む、そそる品書き。名古屋「花いち」

第八千九百七の夜だった。

40年弱営まれてきた店は、名古屋の閑静な住宅街の中で灯りを落とし、ひっそりと佇んでいる。開店から第八千九百七日目の夜だった。「いらっしゃいませ」。いつものように、上品な奥さんと優しい目をしたご主人が挨拶する。流麗な字で書かれた品書きに目を走らせる。

「どれも頼みたい」。この店に来るたびにそう思う。

この店を初めて訪れたのは、2004年だった。最寄り駅から歩くこと15分。ひっそりと住宅街に身を沈め、表札も看板もない。赤みを帯びた黄色い、朽葉色の瓦に生成りの土壁が品を漂わせ、よしずの前には、つつじとむくげが青々と茂って、風に揺られていた。

カウンターに座るといつものように、長板に貼られた半紙に書かれた品書きが手渡される。さあ、どれを頼もうか。悩みに悩む、うれしい時間がやってくる。頼めば、ハチマキを頭にしめた店主の銀蔵さんが動き出す。青織部風長皿に、カワハギの白い肢体が整列する。白き身にちょこんとのせられた山葵の緑がかわいい。軽く昆布締めしてあるのだろう。ねっとりとした淡き甘みに肝の旨みが加わり、酒恋しい。ヒラメは細く薄切りにされ、くるくると巻いて品のある甘みを噛みしめる。縦長でやや太く作られたタチウオは、歯に包まれながら、じれったいような甘みがにじみ出る。

しみじみと美味く、酒をよぶ。銀蔵さんの料理

スミイカは、厚く四角く、歯に吸いつくような甘みを楽しめる。数の子松前漬けは、煎ったばかりのゴマと、細く細く同寸に切られた昆布と人参が、味を活かしている。アワビとゲソ、スナップエンドウとフキ、菜の花の酢みそは、あたりがピタリと決まって、酒を呼ぶ。

次いで、「浸し豆」をお願いした。するとおかみさんが豆を炒り出した。普通は浸し豆といえば、戻した豆を出し汁に浸す。しかし、ここは煎りたての鞍掛豆に、醤油の地を垂らすのである。一豆つまめば、歯と歯の間で豆が割れ、香ばしさが口の中を駆け抜ける。いけません。これも酒である。

スルメと白菜の静かな旨みは、ひたひたと寄せては返して体を温め、大徳寺納豆を混ぜた塩で食べるアオリイカとほし芋の天ぷらは、素朴な芋の甘みに目が細くなる。今度は、揚げたてのはんぺんがきた。いとよりで作ったすり身を取り出し、すり鉢で練って練ってから揚げる。熱々をいただけば、ふわりと唇に触れて、ムースのように崩れて、品のある甘みを忍ばせる。中にアクセントとして入れられた、細く細く切ったゴボウが心憎い。このゴボウとて注文後に切られたものである

よし、今度は汁物で燗酒を飲もう。大好物の船場汁を品書きに見つけてしまった。塩鯖と大根の船場汁である。ああ、ああ。汁を一口飲んだ瞬間に、体がほぐれ、骨が溶けて、心が熱くなる。しみじみとしみじみと、うまさがにじり寄る。ピリッと刺激する胡椒、鯖の高い鮮度、大根のこれ以上でも以下でもない薄さ、精妙に整えられたそれぞれが、至上のおいしさを育んでいる。それでいて気取っていない。だし巻きは、卵の甘みを邪魔しないだしの味わいに、思いやりが滲む。

「料理は破壊である。それは食べることで完成する」

次いで煮物が食べたくなり、メバルをお願いした。

「大きなのでいっちゃいますか?」と、銀蔵さんが聞く。「はい」と答えると、嬉しそうに笑われた。一匹をさばき、目の前で火が入っていく様を見る。その光景だけで、酒が飲めるというものだ。やがて堂々たる体躯を誇らしげに見せたメバルが現れた。口に運べば、なんともふんわりとして、煮汁の甘みの中から優しい甘みがこぼれ出す。これで笑わずして、なんで笑うのだろう。メバルの煮付けは数多くあるが、このふんわりした食感と気品のある甘みに出合うことがない。

さあ、そろそろ締めようか。そばと同じ寸に大根を切った大根そばや、名物の天むすに、お揚げに上品な甘みがそっと染み込んだいなり寿司。あるいは強餅を入れた、雑炊か。悩むぞぉ。やはり冬だから、大根そばをお願いしよう。銀蔵さんは、大根取り出して切り、かつらむきにして、細切り、出汁で茹でた。傍らでおかみさんがそばを茹でる。なにも言わないのに、その連携が美しい。ずるるる。

大根そばをたぐる。そばと同幅に揃えられた大根がそばと一心同体となり、妙なる歯ごたえを見せる。冬だけの、そばと大根の境が一切ない興趣である。

ああ今日も飲んだ。ここではいつも、想いに任せ、肴を頼み、酒を頼む。そして、「料理は破壊である。それは食べることで完成する」という、銀蔵さんが書かれた書を思い浮かべる。料理は破壊である。しかし、銀蔵さんのように、注文が入ってから破壊にかかる料理人は少ない。16年前に初めて「天むす」を頼んだ時は、「時間を少しいただきますけど、よろしいですか?」と聞かれ、そこからご飯を炊き、炊き上がったご飯に揚げたてのさいまきを包んで握られた。その時、銀蔵さんは破壊の真意を知るお方だと思った。怖さと素晴らしさを刻みながら、料理をする方だと思った。すべての料理に仕事があり、すべての料理はてらいがない。

こうして「第八千九百七の夜」は、とっぷりと更けていった。

ああ、なぜこんな店が東京にないのだろうと、来るたびに思う名古屋の夜。

マッキー牧元

マッキー牧元

1955年東京出身。㈱味の手帖 取締役編集顧問 タベアルキスト。日本国内、海外を、年間600食ほど食べ歩き、雑誌、テレビなどで食情報を発信。「味の手帖」「朝日新聞WEB」「料理王国」「食楽」他連載多数。三越日本橋街大学講師、日本鍋奉行協会顧問。最新刊は「出世酒場」集英社刊。

板前割烹 花いちイタマエカッポウ ハナイチ

住所:
愛知県名古屋市西区児玉2-4-13
TEL:
052-524-2876
アクセス:
地下鉄鶴舞線浄心駅より徒歩8分・ 浅間町駅より徒歩20分
営業時間:
月・火・木~日 17:00~22:00(L.O.21:00)
定休日:
水曜日
支払い方法:
カード不可・電子マネー不可
URL:
https://nbu0800.gorp.jp/

更新: 2021年3月5日

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