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TOKYO ELITE RESTAURANT|世界に自慢したいシェフ
|アイデンティティのあるイタリア料理のシェフ[13]|

井川直子さんに訊く
「シェフたちの歩みと現在地点」

バブルの景気の勢いに乗り、瞬く間に世の老若男女を虜にしたイタリア料理。大躍進を続けてきたが、やがて飽和状態となり、受難の時代を迎える。このブームは、何を生み、何を失わせ、何に気づかせたのか。生き残りを懸けた料理人たちは、今また新しいイタリア料理の世界を見せようと進化し、独自のアイデンティティをさらに強く持つようになった。ここではその軌跡を辿る。

PROFILE|井川直子|

フリーライター。「食」「飲」まわりの人をテーマに取材。2005年よりライフワークとして地方のイタリア料理店、居酒屋を巡る。著書に『イタリアに行ってコックになる』(柴田書店)、『僕たち、こうして店をつくりました』(柴田書店)、『シェフを「つづける」ということ』(ミシマ社)ほか。

 

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日本のイタリア料理界に元気がない、と囁かれるようになったのは2005年あたりからだろうか。


1990年の「イタめし」で派手な花火を打ち上げて以来、15年あまり。イタリア帰りのラッシュが始まり、スターシェフが次々と現れて、雑誌ではイタリア料理特集を組めば売れるという長い春を謳歌した。イタリア料理には、日本人の知らなかったいろんな面白さがあったのだ。ナポリピッツァが登場すれば、それまでパリパリ教だった人々は一斉にモチモチ教に改宗し、カルボナーラを食べ尽くした頃には日本の食材を使った「東京イタリアン」と呼ばれる新ジャンルが生まれた。都心を中心に「トラットリア」なる日常の店が増え始めたのは2000年代初頭である。けれど2004〜5年頃、もっと日常に近い店がスペインからやって来た。「バル」だ。前菜、プリモ、セコンドといったルールさえないそれは、日本人になじみ深い居酒屋のように、好きなものを好きにつまんでサッと帰れる。当時の立ち飲みブームとも重なって、あっと言う間に日本中を席巻した。じゃあリストランテはどうかというと、新世代フレンチにとって代わられた。あれほど「堅苦しい、高い、重い」と言われたフランス料理が、「カジュアル、5000円、軽さ」を引っ提げて戻って来たのである。新世代フレンチとも呼ばれた、ビストロ以上レストラン未満の流れは、後の「ネオビストロ」や「ビストロノミー」へと続くことになる。私の体験の範囲で言えば、2004年までは新店取材といえばイタリア料理だったものが、2005年には夕立ちが止むようにピタリと鎮まった。

過剰なブームがもたらした イタリア料理、受難の時代。

ここからイタリア料理は受難の時代を迎えていくのだが、原因は、実は他人のせいばかりではないように思う。空前のイタリア料理ブームは、1990年以降、倍々ゲームのように多くのコック志望者をイタリアへ送り込んだ。現地では「厨房のドアを開ければ、日本人コックがうじゃうじゃいる」と言われ、実際、ミシュランの星付きリストランテには、必ずと言っていいほど日本人がいた時代だ。それのどこに問題があるかというと、膨大な「イタリア帰り」を生んだというところである。当時、星付きの店で修業することはまったく難しいことではなかった。今働いている日本人が辞める時、その友だちを紹介するだけ。店側にしてみれば、同じポストに別の日本人が入るだけ。もちろん実力でポストを得ていく者もいるが、イタリア人に「お前の代わりはいない」と言わせるコックは一握りで、多くは名前も憶えてもらえないうちに短期間で流れていく。何かを掴む前に修業先を転々としたとしても、その店で野菜の下処理しか担当していなかったとしても、帰国すれば「イタリア帰り」と呼ばれ、プロフィールには「星付きリストランテで修業」と載る。なんたってイタリア料理ブーム、売り手市場だ。星の数よりも「どんなところで、どれくらい、何をしてきたか」が大事なのだと日本人が気づくのはもっと先の話で、この時代は店もシェフも玉石混淆。太い根っこを持たぬ草が、ちょっとの風にも倒れてしまうのは自然の摂理だろう。遭うべくして遭った受難とも言える。しかしこの時、海の向こうでは少しずつ何かが変わろうとしていた。受難の前からイタリアにいた2000年修業組は、すでに危機感を持っていたのである。これだけ大量のコックが一斉に日本へ戻ったら、イタリア帰りというだけじゃ闘っていけないことは彼らが一番感じていたから。もはや、人とは違う経験をして、人にはない何かを得、自分でなければできない料理を作らなくては生きられない、と。そう考える彼らがとった行動は、ざっくり分けると3つある。1つはメジャーな州や星付きの店だけでなく、山奥や漁村、小さなトラットリアから肉屋まで、マイナーでも自分のアンテナを信じて修業すること。そこに日本人がいなければなお良し。2つめは、ガストロノミーの世界を引っ張っていたスペインへ渡ること。そして3つめは、修業の長期化である。数カ月から、長くて3年程度だったイタリア修業が、5年、7年、10年と延びていった。長ければいいということではないが、時間をかけなければ得られないものがあるのもまた事実。

2000年代修業組が 日本をじわじわ変えていく。

彼らの異変は、ゆっくりと日本のイタリア料理を変えていった。まずは、イタリアから「地元を誇り、地元に根ざす」という生き方や「地産地消」のアイデンティティを持って帰った料理人が、東京でなく地方を選ぶようになる。私が地方イタリア料理店を回り始めたのは2005年頃だが、すでに和歌山には「リストランテ・アイーダ」(現「ヴィラ・アイーダ」)があり、青森「オステリア・エノテカ・ダ・サスィーノ」があった。山形「アル・ケッチァーノ」の奥田政行シェフは現地での修業経験はないが、イタリアのスローフード運動の体現者となっていた。一方、東京では、ごく少数だが、イタリアのリストランテを作ろう、という動きが2007年に集中した。「イタリアの」とはどういうことか。星付きで修業したコックは、日本でも星付きの料理を作ろうとした。だがその多くは、料理しか見ていなかった。限られた予算から先に削るのは設えやサービスの質で、結果、料理だけリストランテ風の店が異常に増えた。「イタリアの」リストランテは、オステリアやトラットリアなど飲食店ヒエラルキーの頂点にある。建物、内装、食器、サービス等を総合的に演出し、調えた店のことをいう。その在り方を日本でもちゃんとやろうとしたのが、この年にオープンした江戸川橋「ラ・バリック・トウキョウ」、広尾「インカント」、横浜「サローネ2007」だ。同時に、このあたりから長期修業組も徐々に帰国を始めた。同じ年に開店した代々木公園「オストゥ」の宮根正人シェフは6年、翌年の中目黒「イカロミヤモト」宮本義隆シェフは7年。鎌倉「オルトレヴィーノ」の古澤一記シェフは10年の間イタリアに居た。だが、間違えないで欲しいのは、彼らの重きが「長さ」ではなく「深さ」にあったということだ。宮根シェフはピエモンテという土地を深く掘り下げ、宮本シェフは山岳地帯での生活に溶け込んで、イタリア人の皮膚感覚を掴んだ。古澤シェフは料理とワインを等しく高い次元で学ぶため、現地でシェフ、ソムリエ、醸造家を経験。イタリア料理を日常的に楽しんでもらいたい、とエノガストロノミア(食材やワインの販売、バール、リストランテが一体となった店)を日本へ持ち込み、地元鎌倉で、家具や食器も含めトスカーナの世界観を表現した。だが翌年のリーマンショックを境に、人々は「家飲み」に傾いていく。外食するにしても銀座や青山といった「遊ぶ街」ではなく、沿線の「暮らす町」にある、ちょっと寄れる小さな店が賑わった。限りなく自宅に近い外の食は、町の新しいコミュニティとして、人と人とをつなげる役割も担う。ただし中心になったのは、スペインのバルや急速に浸透し始めていた自然派ワインバー。イタリア料理では代官山「ラ・フォルナーチェ」(現在は「オルランド」として神泉に移転)があったものの、バールやエノテカはまだ少数派だった。

自分にしかできないことを 見つけた者の「表現」が始まる。

不景気の深刻さは、2010年、銀座からフィレンツェの三ツ星「エノテーカ・ピンキオーリ」が閉店したことで思い知らされる。さらに翌年の東日本大震災を決定打に、高級レストランほど苦しんだ。元気なのはやはり小さい店や、ピッツェリアだ。人と人が寄り添えて、カウンターや窯を中心に集まるような、温もりを感じる店である。飲食業全体が沈んだ2011年だったが、しかしイタリア料理界では変化の兆しがあった。リストランテと酒場、という二極が現れたのだ。一見真逆に思えるが、これらには共通する意志がある。「今までの常識を壊す、価値観を変える」という、思想と言ってもいい。八木康介シェフは、リストランテ離れは不景気だけのせいじゃないと考えた。何が「今」にフィットしないのか。その原因を削除して、1970年代生まれの自分が考える新しいリストランテ像を目指したのが代官山「リストランテ・ヤギ」。いわば「イタリアらしさ」より「自分らしさ」に向かうリストランテは、この年だけでも目黒「ラッセ」、白金「イルーチ」、広尾「ラ・ローザ・デル・ヴィニェート」などが誕生している。一方、酒場と呼びたいイタリア料理店としては目黒「メッシタ」、白金高輪「ロッツォシチリア」、麹町「ロッシ」がオープン。日本でもイタリアでも太く修業した技術を持ちながら、あくまでも敷居は低く、旨いもの屋に徹する店。いずれもカウンターを真ん中に据え、いや、カウンターイタリアンは昔からあるのだが、2011バージョンはさらに大衆酒場に近い感覚というべきか。事実、メッシタとはイタリアの酒場の意味。そしてこの在り方は、後に亀戸「メゼババ」へとつながっていく。トラットリアやオステリア、エノテカといった従来の枠でくくれない店は、その後もさまざまな形で出現した。日本の居酒屋にイタリアのスピリットを感じ、和と伊を同居させた代々木上原「オトナノイザカヤ中戸川」。和食の技術も採り入れ、日本のイタリア料理を突き詰めた恵比寿「ゴロシタ.」。厨房と客席を1つの空間に置くことで「切りたて、打ちたて、作りたて」に徹し、結果、エミリア=ロマーニャの味を究めた恵比寿「ペレグリーノ」。イタリアを「再現」する時代はとっくに過ぎて、危機感を抱きながら、自分でなければできないこと=アイデンティティを求めて修業してきたシェフたちが「表現」を始めた。それはたぶん、日本だからできるイタリア料理だ。イタリア料理界に元気がない?いや、彼らが私たちをもう一度イタリアに憧れさせてくれるのは、これからである。

井川直子

フリーライター 井川直子

「食」「飲」まわりの人をテーマに取材。2005年よりライフワークとして地方のイタリア料
理店、居酒屋を巡る。著書に『イタリアに行ってコックになる』(柴田書店)、『僕たち、こうして店をつくりました』(柴田書店)、『シェフを「つづける」ということ』(ミシマ社)ほか。

Text:井川直子

※こちらの記事は2015年11月20日発行『メトロミニッツ』No.157に掲載された情報です。

更新: 2016年12月30日

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