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TOKYO ELITE RESTAURANT|世界に自慢したいシェフ

|アイデンティティのあるイタリア料理のシェフ[8]|
東京のイタリア料理の変遷に見る
時代を切り開いた立役者たち

日本のイタリア料理のはじまりは明治時代まで遡ることはできますが、 大きく動き始めたのは、まだここ30年くらいでしょう。月日としては浅いかも知れません。でもそれは、 おいしいイタリア料理を私たちに伝えようとしてくれたシェフたちの熱くて濃い情熱の歴史でもあります。そんな歴史を イタリアの食文化に精通する河合寛子さんと土田美登世さんに振り返っていただきます。

ー1980年代ー 当代を代表するシェフたち

ラ・ベットラ・ダ・オチアイ【落合 務】

生魚のカルパッチョの海の親

最初に料理長を務めた「グラナータ」は、1982年の開業当時、本格的なイタリア料理を供する数少ない高級レストランで、在京のイタリア人が贔屓にする店として知られた。独立後の現店舗は「オチアイの小食堂」の店名が示すように、庶民が普段に通うイタリア食堂を目指し、毎日でも食べ飽きない本場イタリアの味をコンセプトとする。テレビ、雑誌、書籍などでも、家庭で楽しめるわかりやすいイタリア料理を紹介し、人気シェフに。もともとは生の牛フィレ肉で作る「カルパッチョ」を、刺身からの発想で、生魚で作った最初のシェフと言われる。

アルポルト【片岡 護】

少しずつたくさんの美しい小皿料理を提唱

工業デザイナーを目指すが、断念してミラノ総領事公邸付きの料理人 となり、イタリア料理の道に進んだ異色の経歴の持ち主。「料理を作る ことも1つのデザイン」と勧めてくれた新総領事のひと声が人生を決 定づけた。公邸での仕事の傍ら、評判のレストランを数多く食べ歩い て新しい時代のスピリットを学んだことが独立後の店作りの基盤に。 お洒落でエレガントな美しい盛り付けと、1コースを少量ずつ十数皿 の料理で構成した「イタリア小皿料理」は日本人の感性に響き、少食の 日本人の胃袋に合ったスタイルとして称賛され、一世を風靡した。 

リセット【室井克義】

ピエモンテ州を軸に地方料理を説く

「修業先はローマ」が主流の時代に、あえて北部ピエモンテ州の田舎を めざし、労働許可証を取得して1軒のレストランで4年半にわたる修業 を積む。「ひとつの土地で四季の移り変わりを体験してこそ、土地を理 解することになる」が信念だった。帰国後、当時の日本では無名に近 かったピエモンテ州と、隣接のリグーリア州の料理を中心に紹介し、地 方の魅力や重要性を説く。「ホテル西洋銀座・アトーレ」の料理長時代に は日本イタリア料理協会の創設にも尽力し、初代事務局長を務めて、ピ エモンテ州に創設された「ICIF」の料理留学制度の道筋を作った。 

ヒロソフィー【山田宏巳】

個性の光る発想とおいしさの表現力

 1985年オープンの「バスタパスタ」、95年の「リストランテ・ヒロ」、そし て現「ヒロソフィー」と、一貫して山田流イタリアンワールドを展開。国 内外の食材の逸品を見出し、イタリア料理と融合させて、素材の持ち味 を生かした直球型のおいしさを追求してきた。代表作の「冷製トマトの スパゲッティ」はイタリアにはない冷製仕立てのパスタ料理の発想と、 当時はまだ普及していなかったフルーツトマトを生のままソースにし たところに斬新さがあった。また、最新の調理機器や調理法もいち早く 取り入れるなど、時代の先を読む感覚にも長けた料理人でもある。 

河合寛子/土田美登世

フードエディター&ライター 河合寛子/土田美登世

【著者】プロフィール

■河合寛子/「専門料理」「料理王国」編集部を経てフリーランスのフードエディター&ライター。「専門料理」編集長時代には1980年代から90年代にかけての大イタリア料理ブームをプロの視点から取材してきた。確かな知識で書かれる原稿にシェフたちの信頼も厚い。イタリア料理の編書多数。

■土田美登世/「専門料理」「料理王国」編集部を経てフリーランスのフードエディター&ライター。「専門料理」では河合氏の部下。ともに「料理王国」創刊メンバー。『日本イタリア料理事始め堀川春子の90年』(小学校・刊)をまとめ、日本のイタリア料理の歴史を追った。

Text:河合寛子

※こちらの記事は2015年11月20日発行『メトロミニッツ』No.157に掲載された情報です。

更新: 2016年11月26日

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