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TOKYO ELITE RESTAURANT|世界に自慢したいシェフ

|アイデンティティのあるイタリア料理のシェフ[6]|
時代を切り開いた立役者たち
ー1980年代ー

日本のイタリア料理のはじまりは明治時代まで遡ることはできますが、 大きく動き始めたのは、まだここ30年くらいでしょう。月日としては浅いかも知れません。でもそれは、 おいしいイタリア料理を私たちに伝えようとしてくれたシェフたちの熱くて濃い情熱の歴史でもあります。そんな歴史を イタリアの食文化に精通する河合寛子さんと土田美登世さんに振り返っていただきます。

|1980年代|新イタリア料理の到来とシェフのクローズアップ

私が料理専門誌へ配属された80年代初めを振り返ると、当時の誌面を華々しく飾っていた西洋料理はフランス料理のみ。イタリア料理はスペイン料理などと「その他の西洋料理」と扱われるかわいそうな存在でした。
イタリア本国の情報は少なく、日本で取材できるレストランの数も限られ、イタリア料理を知りたいという読者も決して多くはなかった。だから、特集企画で独り立ちさせられるほどのインパクトがなかったのです。80年代以前に蒔かれていたイタリア料理のタネが実を結び、脚光を浴びるには、まだ少しの時間が必要でした。それが変っていったのが80年代です。

「日本におけるイタリア維新」と言ってもいい時代です。アメリカ経由のイタリアン、特殊な和風化を遂げたイタリアン、一部のイタリア通の限られた世界だったイタリアン……、モヤモヤしていたイタリア料理が、明確な実像となって見えてきます。その大きな立役者が、イタリア現地へ修業に渡った日本人料理人と言ってもいいでしょう。

右)落合務さん 右2)片岡護さん 左2)室井克義さん 左)山田宏巳さん

60年代は数えるほどだったイタリア渡航者が、70〜80年代に活発化し、80年代から料理長となって日本で腕を振るい始めます。この黄金時代の幕開けを築いた「ラ・ベットラ・ダ・オチアイ」の落合務さん、「アルポルト」の片岡護さんは70年代、「リセット」の室井克義さんは70年代から80年代、「ヒロソフィー」の山田宏巳さんは80年代の修業組。

しかも、修業先は北から南まで各地のリストランテ、トラットリアなど、さまざまな環境で学ぶ人たちが増えていきます。このことが、イタリア料理の「多様性」と「今」を日本に伝える役目を果たしてくれたのです。また、帰国したての若手料理人を代々シェフとして迎え入れてきた「リストランテ山﨑」(日髙良実さん、濱﨑龍一さんなどを輩出)も、イタリアの息づかいをビビッドに伝えてくれました。この流れに沿って変わったことが1つ。

日髙良実さん/濱﨑龍一さん

日本のイタリア料理界に「人=シェフ」の顔が見え始めたことです。それまでは「店」の名前だけが語られ、店がイタリア食文化の発信地として機能していることが多かったのですが、この頃から「○○さん(がシェフ)のレストラン」と、シェフがクローズアップされ、シェフの個性が店の個性として打ち出されるようになります。また、料理界の動きと並行して、客側の変化もありました。

イタリアへの観光ブーム、世界的なトスカーナブームとあいまって、イタリア現地の味を体験する人のすそ野が広がり、レストランに求めるものも高くなっていったからです。客と店とが刺激し合うことで、日本におけるイタリア料理は力を伸ばしていくことになります。

そして、80年代の日本のイタリア料理は、本国の情報が大量に押し寄せました。ちょうど70〜80年代にイタリアの料理界でも大きな変化が起きていたからです。イタリアで修業する日本人はこの影響を多かれ少なかれ受け、「伝統」と「革新」の料理を両手に携えて帰国します。この料理の革新とは、「ヌオーヴァ・クチーナ」(新イタリア料理)と呼ばれる改革の波でした。

現代人の舌に合わせ、ライトで、健康的で、素材の個性を生かした美しい料理に向かいつつあったのです。ただ、ヌオーヴァ・クチーナも、ベースにあるのはイタリアの各地で育まれてきた伝統料理。イタリア各地の意識の高いシェフたちが、それぞれ「わが郷土の伝統料理」を土台に、新しい時代の味覚を模索していたわけです。

日本にいる私たちは、こうしたイタリア料理の新しい潮流からも地方料理の多様性を知り、重要性に気づきます。イタリアから帰国した料理人が熱く語っていたのも、「イタリア料理はすべてが地方料理である」ということでした。当時の私たちが理解していたのは、「イタリア」という国だけであり、それぞれの料理がどの地方で生まれ、食べられているかなど知る由もありませんでした。

ただ、この時代の「地方」はまだ限られたものです。今でこそ、全20州のなんらかの料理が日本のどこかのレストランで食べられる驚くべき時代ですが、この頃はローマ、ナポリ、ミラノ、ヴェネツィアといった大都市圏、さらにトスカーナ、ピエモンテ、シチリア、エミリア=ロマーニャといった豊かな土地の料理に限られていました。

特に80年代後半のイタリア料理の躍進は、バブル景気や「1億総グルメ化」とも重なります。グルメ漫画『美味しんぼ』のヒットに象徴されるように、「美食」に関心が向かい、イタリア料理の分野でも、イタリア帰りのシェフたちが本場の空気、本場の味を目指して進化させていきます。中には、サービスマンをイタリア人スタッフで固め、来店する客を「ボナセーラ」(こんばんは)と連呼しながら元気よく迎え入れる、本場さながらの雰囲気作りで評判を呼ぶ店も現れました。

しかし、本場の味の再現を目指す中で料理人たちを悩ませたのは、イタリアと同じ食材が思うように入手できなかったことです。野菜、肉、加工肉、チーズ、米、豆、キノコ……。もともと日本にないものから、あっても質がまるで違うなど、食材に関する苦労は山ほどありました。60年代、70年代は、「日本にあるもので代用する」時代でしたが、80年代はイタリアでの経験を積んだシェフが増えてきたため、本物志向、本場志向が強まります。

そうした料理人の要望に応えるべく、イタリア各地からさまざまな食材を輸入したり、またイタリアから取り寄せた種子で野菜やハーブを栽培するなど、懸命の努力が重ねられました。ズッキーニ、パプリカ、赤チコリ、サンマルツァーノ種トマト、イタリアンパセリ、バジリコ、パルミジャーノ、モッツァレッラ、パンチェッタ、生ハム……今では当たり前に手に入るものが、80年代には夢の食材だったのです。

日髙良実さん/濱﨑龍一さん

今や、どんなイタリア食材も「ミラノより、ローマより、東京の方が簡単に手に入れられる」と言われるほどになったのですから、すさまじい努力の跡と言うべきでしょう。食材の中でも一番のビッグニュースは、白トリュフとポルチーニというイタリアオリジナルの高級キノコが生鮮品で輸入され始めたことでしょう。

それまで、白トリュフなど望むべくもないもの、ポルチーニは日持ちのするドライや冷凍品がやっとでした。それ以外にも、油は生搾り100%のエクストラヴァージンオリーブ油が、パスタはデュラム小麦(硬質小麦)100%の製品が安定して輸入されるようになり、本場イタリアの味が享受できるようになっていきます。

日髙良実さん/濱﨑龍一さん

さて、食材の充実とともに、より明らかになったことがありました。食材と料理の「地域性」です。地域によって生産される(=使う)食材が違う、だから料理が違う。そんなことがわかってきました。例えば北部では基本的にニンニクを使いませんし、トマトの消費は南部の方が圧倒的に多い。またオリーブ油は南部、中部の文化圏で、北部はバター。バルサミコ酢はモデナを中心にしたエミリア=ロマーニャ州の産物であるなど。イタリア料理が地方料理の集合体であることが、ますます確信されるようになったのです。(河合)

河合寛子/土田美登世

フードエディター&ライター 河合寛子/土田美登世

【著者】プロフィール

■河合寛子/「専門料理」「料理王国」編集部を経てフリーランスのフードエディター&ライター。「専門料理」編集長時代には1980年代から90年代にかけての大イタリア料理ブームをプロの視点から取材してきた。確かな知識で書かれる原稿にシェフたちの信頼も厚い。イタリア料理の編書多数。

■土田美登世/「専門料理」「料理王国」編集部を経てフリーランスのフードエディター&ライター。「専門料理」では河合氏の部下。ともに「料理王国」創刊メンバー。『日本イタリア料理事始め堀川春子の90年』(小学校・刊)をまとめ、日本のイタリア料理の歴史を追った。

Text:河合寛子(1980年代、1990年代)/土田美登世(明治〜1970年代、2000年代)

※こちらの記事は2015年11月20日発行『メトロミニッツ』No.157に掲載された情報です。

更新: 2016年11月12日

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